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「二礼二拍手一拝」では語られない、”聴く”祈りの本質

神楽鈴。沢山鈴が付いた、儀式用の道具。
zaruza

神社での「二礼二拍手一拝」の作法、その中で不可欠の要素でありながら、普段とり上げられることのない“聴く”ということについてご紹介しましょう。

私たちは神社を訪れると、自然に身体を清め、頭を下げ、手を打ちます。しかし多くの場合、その動作の意味や心の在り方までは深く意識されていません。

そのために現代の多くの参拝者は、神社で手をたたいた後、なんの疑いもなく直ちに願いごとをしているようです。

実はこの一連の動作には、ただの挨拶やお願い以上に、「見えない存在とつながるための“音”の儀式」としての意味があるのです。
それを知ることは、心のわだかまりを取り除き、精神が洗われるようになる、言わばほんとうのご利益を得る近道です。

ブログ管理人は、ある体験をした時にこれを実感しました。

視えない世界と向き合う時、人は「音」にすがる

森の中のトンネル

お話するのは、怪談ではありませんから大丈夫ですよ。

それは、森の中で”真の闇”を見た体験です。

部屋の電気を消した程度の暗さではなく、空間の奥行きも輪郭も失われた、まるで異世界のような深い闇でした。
目を凝らしても何も見えず、どこまでが空間でどこからが別の存在か見当もつかない、別世界がそこにぽっかりと口を開けたような感じを受けました。

その先に何があるかわからない、その先は人の社会とは別のルールが支配している世界に思え、私は息をひそめ耳を澄ませました。そうしたのは自己を消し、相手を知るためだと思います。

わずかな物音に神経を集中させ、「何がいるのか」「何が起きるのか」を聴こうとする。同様の状況では、おそらく多くの人が同じ反応をするように思います。

この体験で実感したのは、聴覚は、見えない世界との境界に立つ私たちの最後の感覚手段なのだという事です。

「二礼二拍手一拝」に“聴く”があるということ

神社での参拝において、もっとも広く知られた形式、それが「二礼二拍手一拝」です。

この所作のなかで「聴く」という行為に触れられることは、ほとんどありません。

けれど暗闇を見た後に、管理人は思いました。

鈴を鳴らす、拍手を打つ、その音が空間に響き、静寂が戻ってくる──その瞬間こそが、神様との対話の入口なのではないかと。

間を閉じて集中する女性の横顔

音は一方通行ではありません。様々な角度で広がり、「聴く」ことで戻ってもきます。

響きの余韻に耳を澄ませ、そこに現れる静けさ、ごく小さな感覚こそが、私たちが神様と出会うための通路なのかもしれません。

二礼の意味

南天の実で描いた数字の2

日本にはハレとケの考えがあります。

自然が滞りなく、絶え間なく循環を続けることで、長い間同じ土地で豊かさを築いてきた私たちは、その根幹を守るために、逆に何らかの形で日常に一線を引くということをよくします。
川には川の神さまが、田には田の神さまがいると考え、失礼のないように祀るのはそのためです。

神社においては、鳥居をくぐることで日常(ケ)を離れ、特別な空間(ハレ)に入るとされます。ですから私たちは礼をもってその境界を越えます。

大きな赤い鳥居をくぐる人びと

そしてご本殿は神様に最も近づく場所。

ここで深い礼を二度行うのは、単なるマナーではなく、自分が神様に用がある者であることを、周りに知らせる意味があります。

作法はいろいろあるかも知れませんが、どれをとるとしても、自分は神さまに対して礼をしているのだと、はっきり示す気持ちが大切です。

重ねて二度、90度の深い礼なら、どんなものの目にも、あなたが神さまの客人であるということが、明確に映るでしょう。

90度の深い礼をする男性

これは最後の一拝でも同じです。
自分がどなたに対して拝んでいるのか、明示させます。

音を響かせ、空間を目覚めさせる──二拍手の力

森の中の神社

かしわ手(二拍手)によって、強くて明瞭な音を空間に響かせます。

この音は、以下のような意味があると考えられます。

神様への挨拶

つかみどころのない空間での、自分の存在の位置づけ

神道で神様は音を聞いているとされます。

また、ご神域は目に見えている建造物などだけでなく、見えない神々の世界が重なっているとも言えるので、そのつかみどころのない空間で、体しか見えない私たちはたよりない立場です。
はっきりと音をたてることで自分の存在と位置を確立させます。

そしてこれは、その響きの先を「聴く」ための行為でもあります。

音をたどり、消えゆく先にある静けさこそが、神様との境界に立つ“扉”なのかもしれません。
これを感じるには、お願い事を唱えるより先に、まず心を鎮めて「聴く」ことを大事にするべきでしょう。

古びた屋敷と神域──音が空間を変える瞬間

森の中の空き家

管理人には、もう一つの原体験があります。

森の奥の、長年無人の古びた家に、たった一人で入らなければならないことがありました。

光の差さない、ひんやりとした空気。
物陰に何かが隠れているかもわからない。

その中で、私はふと、眠れる静寂を破るように強く手を打ちました。
音は響き、その響きに変化がないか必死に聴きました。

一瞬、虫や獣の気配が動くかもしれない。
何も、動かないかも知れない。
どちらであるかを、全神経を集中させて聴こうとしている自分がいました。

すると不思議なことに、ひとつの大きな音が建物の隅々まで行き届くことで、そこの空間全体が自分の勢力に入った気がしたのです。

そして幾度か叩くうちには、永く眠っていた建物そのものが、「人間を迎えて守る場所」として目を覚ましたかのように感じました。
自分を忘れ眠ってしまっているもの、ここを不在にしていなくなっていたものが、呼び戻されていくような感覚です。

これは神社のかしわ手と、実によく似ています。

音によって空間の秩序を取り戻し、神聖な対話の準備を整える──二拍手にはそんな力があるのではないでしょうか。

ザルザ流:本気で神様にご挨拶したい時の「聴く参拝」のすすめ

初詣で手水舎に立ち寄る人びと

”神社での祈りとは、自分の心を整え、まず「聴くこと」から始まるのではないか…?”
以下は、その考えをふまえて管理人が提案する“聴く参拝”の流れです。

1.鳥居の前で立ち止まり、このまま自分が進んで良いか気にする。よければ一礼してくぐる。

ここで日常(ケ)から特別な空間(ハレ)へ切り替える意識をもちます。この時に何かふさわしくない状態が自分にあれば、感じ取れるかもしれません。
気付くことができれば帽子を取り、日傘などはたたみます。他にも気づいたことは実行します。これが最上というものはなく、それぞれが自分を顧みて、何かに気づくことが大切です。

2.境内では手水舎などの手順を踏んだ上で、寄り道はせず、まずご本殿に向かう。

境内ではつつましく歩く。(まず本殿に向かい、境内で慎ましくふるまうことで、ここが神様の場所で、自分は神様を尋ねてきたということをはっきりさせます。)

また、気を使って歩くことで、足元の砂利の音や鳥の声を感じられます。
不思議と耳を澄ませるほどに、すぐ近くの車道の雑音などが逆に聞こえなくなったり、あるいは遠くに感じられるかもしれません。

鳥居の中では自分からの「発信」を控え、まっさらな「受け取る」気持ちになることを心がけましょう。

3.お賽銭を納め、鈴を鳴らす

お賽銭は、管理人のおすすめでは100円ですが、無理をせずに気持ちの額でも大丈夫です。
鈴はからころと、こぼれていくように、転がる音を響かせます。

4.深く二礼(90度を意識して)

この祈りが今どなたに向いているのか、自覚し、周りにも示します。

5.二拍手

まず両手を合わせ、心も集中させます。

右手をシュっと擦りおろし、その音を聞いた後の静寂をとらえます

そしておもむろに一回、そして二回手をたたきます。音ははっきりと、できれば神域全体に響くほど。(ただし、参拝客が多い、中で神事を行っているなど、周りの状況は考慮してください。)

響きを届ける感覚、そして響きの先を「聴く」ことを忘れないようにします。

耳を澄ます。(ここが核心です。遠くの物音を聞き取るように集中します。)

6.ゆっくりと、ずらしていた右手を戻す。(遠くを聴いていた自分の感覚も、近くに戻して収めます。)

音に集中するので、目は閉じていても半眼でも良く、特に思うところがないなら、ご神鏡などを凝視しないようにします。願いごとがあれば、このタイミングでつつましく少し思い浮かべます。

参拝で祈る人々

7.手をおろし、最後に一礼(90度)

このすべては他の誰でもなく、神様に向けた行為であることを再度明示させます。

8.去る時も鳥居ごとに振り返って礼をする

参拝客が多い時などは、端によってつつましくおじぎするだけで良いでしょうが、できれば鳥居ごとに体ごと振り返って、ハレとケを心でも区別させながら、入ってきた時よりも名残り惜しんでご神域から出ます。

※参拝方法に唯一の正解はなく、神社にはそれぞれの作法があります。他の参拝客がいるときは、静寂が保てないのが普通ですし、時間をかけすぎない配慮も大切にしてください。また観光地で楽しんで参拝する際などは、その楽しい気持ちのまま、お連れの方と談笑し、境内を散策しながらお参りするのも良い事です。祈りの形は一つではありません。

二礼二拍手一拝、その中に「聴く」という事を思い出す

神社の鈴

神社という場所で幸せを祈ることは、人としてとても誠実な営みです。
多くの参拝者は、参拝の作法を軽んじることはありません。

しかし、「見えない世界」とつながるということは、その証拠が見えないだけに、決して容易ではありません。
「二礼二拍手一拝」の所作に意識を向けながらも、心の中はつい「お願いごと」にばかり向いてしまうこともあるでしょう。

けれど本来、神前に立つということは、まず何より祈りを捧げることであり、この「祈り」とは、こちらから願いを押し出すことではなく、相手の存在を純粋に感じ取ろうとする姿勢から始まるものです。

たとえば──

神様、いらっしゃいますか?
ご挨拶に伺いました。日ごろの感謝を申し上げます。」

こうして心を整えた上で、お願いごとがあるならば、それは後に慎ましく申し上げるのが、本来の順序といえるでしょう。

そこでぜひ参拝では「音」をもっと大切にし、「二礼二拍手一拝」を行うその瞬間には、音の余白に、耳を澄ませてみてください。
何も聞こえなくて構いません。ただ、「聴こう」としてみるのです。

その心の習慣はやがて、私たちの身のまわりに満ちる、八百万の神々の気配に気づかせてくれるかもしれません。

参考資料

神社本庁公式サイト,参拝方法

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今朝、雷で目が覚めました
神社やお寺、教会などを軸に、祈りについて学びながら心の平穏を探します。このブログをきっかけに、世の中の事物にも目を向けられたらと思います。晴れた一日になりますように。
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