文殊菩薩の剣に学ぶ:斬るとは、内なる調和を映すこと

力のある者が、力のない者を食い物にしようとする話は、古今東西、絶えることがありません。
また、心の執着が原因で人を傷つける事件も珍しくありません。
これらは、心の動かし方が上手くいかず、人間が内面のバランスを失ってしまった結果と言えるでしょう。
人の社会は昔から変わらないのに、現代の多くのゲームでは、剣でいとも簡単に殺りくを繰り返す場面が、未来を担う子どもたちに向けて描かれているようです。
力とは何か?
強さとは?
心のはたらきとは何か。
祈りをテーマとするこのブログでは、今回は剣を持つ文殊菩薩さまを題材に、その象徴から剣の扱い方と心のありようを考えてみたいと思います。
剣とは、扱いの難しい「心の鏡」
剣のイメージと実際
日本は剣道が盛んであり、抜刀術など世界的に評価される技もあります。
また、家庭では片刃の包丁を日常的に使います。
すばらしい刃物に関わる文化のある日本ですが、それでも諸刃の剣を持ったことのある方は稀でしょう。剣のイメージはあっても、それは物語の中の武器に限定されるかも知れません。

剣道やお料理にはあまり縁のない若い人の場合、剣はまさに物語の中、たとえば映画やゲームの中で馴染みがあるでしょう。
剣は勇者がよく持ち、王者の印となったりもします。
頭の中では、多くの人にとって身近な道具の一つでありながら、実際には手にすることのない剣。
強さと正統性の象徴のような印象がありますが、実際にこの諸刃の長い武器を扱おうとすると、強さを感じるよりも、その構造の繊細さと脆さに驚かされます。
これでどれだけ戦える?剣の構造的な限界

片刃のものは、一方が薄い刃でも、もう一方はやや厚みのある峰となっています。
それでも、この刃物系の武器が薄いことに変わりはありません。
そうでなければ切れず、もし力を誤った方向から受ければ、たちまち折れてしまいます。
また、すぐに刃こぼれしてしまうので、正しい方向に振るとしても、絶対に力任せに扱うことはできません。
折れたり、刃こぼれが激しくなれば、それは戦いにおいて武器を失うことに等しいので、剣の使い手はそれを極力避けるでしょう。
剣は「斬ろう」と思うと扱えない――柔らかく、繊細にたずさえるもの

では、剣を扱う人の動きは、どうなると思いますか?
豪傑に力強く、我こそは勇者とばかりに剣をかかげ、筋骨隆々とした肉体で上から下へ振り下ろすでしょうか。
それとも次から次へ、あいての呼吸も見ず、周りの状況も気にせず、幾多もの敵をまるで非情な機械のように薙ぎ払いますか?
そうはなりません。
剣はそのような扱いをする人には、操作できない武器なのです。
剣を扱う人の動きは、柔らかくなります。
なによりも相手を見て、知ろうとし、その呼吸に合わせます。
来る力は、跳ね返しません。
柳のように受け流し、攻撃も防御も剣を第一のたよりとはせず、まず自分自身の呼吸、足の運び、自らの身のこなしを主とします。
金魚すくいを想像してみてください。
水の流れを意識せずに動かすと、網は破れてしまいますよね。
けれど、水にふわりと合わせながら、金魚の動きにすっと寄り添えば、一瞬の中で成功します。

剣も同じです。
両端が刃になっている諸刃の剣は、切り替えの必要がなく、スピードも増しますが、それだけに一層繊細な身体操作が求められます。
そして見つけた間隙に、ほんのわずかに掠る(かする)だけでも、剣は十分な効果を発揮します。
剣を使うということは、単に力を誇示する行為ではなく、相手・自分・強さ・弱さ・柔らかさなど、あらゆる要素を知り、調和させることなのです。
「剣」を持つお姿――文殊菩薩とは?

文殊菩薩(もんじゅ ぼさつ)は、仏教において智慧(ちえ)を象徴する菩薩です。
菩薩というのは自ら悟りを目指す人のこと、あるいは悟りを目指しながらも、人々を救う慈悲のために現れる存在のことです。
「釈迦三尊(しゃか さんぞん)」の一人とされ、お釈迦さまと並んでまつられることがよくあります。
奈良県の阿部文珠院には、日本最大(約7m)の国宝の仏像がありますが、この他にも多くの寺院にある仏像や仏画では、獅子に乗り、左手に経巻(お経)、右手に剣を持った姿で表されています。
なぜ剣を持つ?

この剣の役割は、敵を倒すことではありません。
文殊菩薩の右手の剣は、煩悩や無知、心の迷いを断ち切るための智慧の象徴とされます。
ここでの「断ち切る」は、力で斬ることではなく、それらを「見抜く」という働きに近いものです。
武器が繊細であるがゆえに、この武器の働きをもっとも効果的に出せる瞬間を見出すには、自他を知ることが要であるのは、さきほど紹介したとおりです。
でも菩薩さまは剣士ではありませんから、その瞬間に、剣を振り下ろして切ったりはしません。おそらくその剣は、見抜いたと同時に切ることも完了しているのです。
それがどういう事なのか、もう少し考えてみましょう。
文殊菩薩の剣の一振り
文殊菩薩が切るもの、それは私たちの中に潜む煩悩や無知です。
怒りや欲、思い込み、無自覚な偏見、そして時に、強すぎる愛情さえも……。
それらに気づいた瞬間こそが、「斬る」力が発揮される瞬間なのです。
真実を見抜いたとき、同時に執着は消えます。
文殊の利剣は、振る間すらなく迷いを断つのです。
しかもその斬り方は、拒絶や破壊ではありません。
拒むという行為にも、まだ「偏り」や「執着」が残ってしまいます。
文殊の剣が開くのは、「空(くう)」、
善も悪も、強さも弱さも、切り分ける必要のない、すべてを包み込む世界です。
自己から切り離された感情や存在、それらが苦しみを生み出しているなら、文殊の剣はそれらを再び一つに還すために振るわれます。
そこに求められるのは、力ではなく、静かな洞察。
それが、文殊菩薩の剣が象徴する「智慧」なのです。
暴力や支配が「強さ」ではない時代を祈る

相手の目を見て、呼吸を感じ、互いの間に流れるものに同調した中で、一瞬の勝機を探す。
剣術とは、そうした繊細な調和の技法です。
剣という武器は、力で相手をねじ伏せ、次々と敵を倒すようにはできていません。
また、相手の存在を否定し、自分の力を誇るための道具にもなり得ないのです。
剣を操るという事は、自分をとりまく流れに柔らかく乗りながら、他者を知り自己を知り、見極めた一瞬の光明を確実にとらえるということ。
するとそのような生身の人同士の観察の中では、相手を必要以上に傷つけないための配慮や優しさ、情けを残す心が生まれることがあります。
とっさに迷う、あるいは訓練によって一切迷わない。
見極めも使剣の瞬間も、心の存在が関わってくる。
あなたはそこに何を見たのか、
どうするのか?
剣は、そのような問いかけを持ち手に繰り返し、「情けの選択」も可能にさせる、極めて人間的な道具でもあるのです。
そうであるからこそ、物語の中でも多くの場合、剣の使い手は勇者であったり立派な王様であったりするのでしょう。
このように、心無くしては扱えない武器。
逆に言えば、扱うには必ず心を鍛えなければならない武器。
文殊菩薩は、そんな剣を静かに携えています。
その文殊の剣が示すのは、切ることで誰か・何かを排除するのではなく、知ることで他との隔たりを無くすという智慧。
振るった先にあるものは、「統合」であり「自他の調和」です。

「自分はこうだから」「あの人がこうだから」「社会がこうだから」――
いつの時代も私たちは、内にも外にも境界線をくっきりと引いてしまいがちですが、この心の癖は、時に深い苦しみの原因になることがあります。
でも、本当はその境界はとてもあいまいで、絶えず変化しています。
心を整え見つめること。
そして見抜いたもの、知ったものを、無理に壊さず調和の中へ戻していくこと。
そのことの大切さを、文殊菩薩は剣をもって、静かに私たちに語っているように思えてなりません。
参考資料
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