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床屋の語源と髪の霊性

zaruza

はじめに記事内容についてのお断り

本記事では、理容・ならびに美容業に関する言葉として「床屋」という表現を使用しています。
近年、「八百屋」「魚屋」と並んで「床屋」という言葉が差別用語に指定され、公の場では避けられる傾向がありますが、それは業界に対する敬意を欠くような文脈で使われることを防ぐためのものです。
しかし、「床屋」という言葉には、古くから人々の暮らしに寄り添い、人生の節目に関わる職業としての歴史が刻まれています。本記事では、その言葉の由来や文化的背景を尊重しながら、前向きな視点で「床屋」という言葉を取り上げています。もしもこの言葉に対して不快に感じる方がいらっしゃいましたら、決して軽んじる意図はないことをご理解いただけますと幸いです。
伝統あるこの職業への敬意と感謝を込めた記事として、お読みいただければと思います。

髪を切ることは、人生を変える一歩

髪を切るとさっぱりしますよね。
痛んだ毛先にさよならすると、瑞々しさがよみがえって、髪だけでなく心まで軽やかに感じます。

それは見た目と、気分だけの問題ではないかも知れません。

髪には何かを変える不思議な力があります。

この記事では、髪の霊的な意味を探りながら、理容・美容室の特殊な意義について考察します。

髪は神?—人々を驚かせてきた神秘性

「亡くなった人の髪や爪が伸びる」という話を耳にしたことがありませんか?

(これは怖い話ではないのですが、もしあなたが今ドキッとして夜にこの話を読んでいるなら、この記事は一度閉じて、またあした明るい時に読みに来てくださいね。)

さて、亡くなった人の髪が伸びるという話ですが、これは世界中で言われている事で、ヨーロッパでは吸血鬼の伝説にその描写があります。

古い洋館の前に立って、蝙蝠が飛び交う空を見上げる外国の紳士

吸血鬼伝説の最古の記録によると、725年、セルビアの村でとある男性が死去しました。

彼の死後、村人たちは「夜な夜な彼が現れ、人々を襲っている」と言い始めました。
村人たちが墓を掘り返すと、彼の死体は腐敗せず、髪と爪が異常に伸びていたのです。

怯えた村人たちは、彼の心臓に杭を打ち、死体を焼いてしまいました。

一度死んだ人の一部が成長を続ける(ように見える)現象は、人びとを心底恐れさせました。

でも大丈夫、これは錯覚です。

永い眠りについたあと、私たちの体の細胞がそれ以上成長したり増殖したりすることはありません。
先ほどの現象は、体の水分が失われて皮膚が縮むために、髪や爪が伸びたように見えているだけです。

昔は現代よりも亡くなった人を見る機会が多くありました。

病気にかかった人などは、自宅に臥せているというのが普通でしたし、外には行き倒れている人というのもありました。

また土葬でしたから、埋葬した遺体が土砂崩れや動物のしわざによって再び露出することがあったのです。疫病などで亡くなる人が多ければ、埋葬自体追いつきませんでした。

このように、昔は時間が経過した遺体を目にする事が多かったので、髪や爪が伸びたと感じる場面は多くあったのでしょう。

また、髪というのは人体のなかでとても腐りにくい部位です。
体が朽ち果てる中で、髪だけが黒々と残る様子もまた、異様に思えたでしょう。

人びとはそこに、この世のルールに属さない魂の存在を見たのです。

今では錯覚とわかっている現象も、昔の人々にとっては深刻で恐ろしいことであり、髪は霊的なものにつながるというイメージが作られやすかったと言えます。

世界中にある、髪にまつわる逸話

このように、髪は霊的なものとして世界中で特別視されてきました。

次に、髪にまつわる話をいくつかご紹介しましょう。

1. お菊人形

後ろ向きに置かれた男の子と女の子の人形ふたつ。
この写真はイメージです

北海道の萬念寺(まんねんじ)に伝わるお菊人形は、「髪が伸びる人形」として有名です。

この人形は、大正時代に亡くなった少女・菊がたいせつにしていた人形だったとされ、遺された家族が供養のために寺へ納めたものです。

不思議なことに、最初は短く揃えられていた人形の髪が、次第に伸びてくるというのです。

科学的には、湿度や繊維の変化、埋め込み部分の劣化によるものと考えられますが、それでも私たちはこの現象をただの偶然と片付けることはできません。

実際、気に入って一緒に遊んでいるうちに、人形の髪が買ってもらった時よりも長くなってしまったり、ナイロン製の髪がくるくると縮んでしまうことは珍しくありません。

それがもし人毛で作られた人形の髪だったなら、その変化はより特別に映るでしょう。

どのような理由であれ、髪が変化するという一点で、私たちはそこに何かを感じ取ります。
人は動かないものにも命を見出し、知らず知らずのうちに、慎重に、大切に接するようになるものです。

2. 文学作品に見る髪

髪についての話は、こわい噂ばかりではありません。
多くの文学作品では、その登場人物のキャラクターを表わすために、髪の描写を効果的に使っています。

『赤毛のアン』 の主人公アンは、鮮やかな赤毛が特徴です。彼女自身はこの髪色を気にしていますが、その赤毛は彼女の想像力豊かで情熱的な性格を雄弁に表わしています。

ミヒャエル・エンデの『モモ』では、主人公の髪は、黒くて縮れ、まるでくしが通らないような状態と描写されています。
この特徴は、彼女の自然体な生き方、物事の本質を重視する価値観を反映しています。

髪でその人物の個性を表現するこれらの手法は、髪が単なる生理的な身体の一部にとどまらず、その人物の多くを語る要素として世界中で認められているからこそ成り立つのです。

古今東西に見る「霊性を持つもの」

実は、霊的だと信じられてきたものは髪以外にもあります。
多くの国において「霊的な力を持つ」と考えられてきたものを、いくつかご紹介しましょう。


1. 血

血は、生命そのものと見なされ、古今東西で神聖視されてきました。

キリストの血

キリスト教では、「血は命の証であり、清めの力を持つ」と考えられています。

イエス・キリストは十字架上で血を流し、その血によって人々の罪が贖われたとされます。 この思想は聖餐(せいさん)式に受け継がれ、「ワイン=キリストの血」として飲まれることで、信者は神との霊的なつながりを得るとされてきました。

血の誓い—命をかけた約束

血は誓いの力を高めるものとしても使われてきました。

日本の戦国時代には、「血判状」と呼ばれる誓約書があり、武将たちは自らの血で署名をすることで、命をかけた盟約を交わしました。

古代アステカ文明をはじめ、血や肉を神への捧げものとした例は世界中にあります。

血は「命の本質」そのもの。
だからこそ、それを用いたり捧げたりすることは、単なる契約や「捧げ物」の域を超え、「魂を分かち合う行為」として、深く強い意味を持ったのかもしれません。

また、血には強い力があると信じられることが多く、多くの文化で魔よけの願いをこめて赤い色が使用されます。

2. 目

見つめる力、見抜く力、目や視線には、古くから霊的な力が宿ると考えられてきました。

ときに人を守り、ときに呪いをもたらすものとして、さまざまな文化に伝承が残されています。

邪視よけの目—ナザール・ボンジュウ

青いガラスの眼玉を見たことがありますか?
トルコなど中東で広く使われるお守り、ナザール・ボンジュウです。

青い目のモチーフの飾りが沢山飾られている

このお守りは、強い視線によって人に災いをもたらすとされる「邪視(じゃし)」から身を守るために作られました。

トルコでは、生まれたばかりの赤ん坊や、新築の家、車などにナザール・ボンジュウを飾る習慣があります。

「強すぎる目には力がある」、だからこそ、「目には目を」。
この青いガラスの目は、邪視を跳ね返す力を持つと信じられているのです。

全てを見通すホルスの目

古代エジプトでも、「目」は神秘的な力を持つものとされていました。

エジプト神話に登場する「ホルスの目」は、神の加護と霊的な力を持つ護符として使われました。

天空にあるホルスの目のイメージイラスト

ホルス神の目は、「すべてを見通す力」を持つと言われ、現代でも魔除けとしてアクセサリーや装飾品に使われることがあります。

日本には「目は心の窓」という言い方がありますが、これは「目にはその人の本質が映る」という意味で、同様の表現は日本以外にもあります。

3. 影

「幽霊には影がない」—子どもの頃、こんな話で盛り上がったことはありませんか?

影は、ただの暗い輪郭ではなく、魂や存在そのものと深く関係していると考えられてきました。

ヨーロッパの伝承には、「影を売ると悪魔と契約を結ぶ」という話があります。
アフリカの民間信仰では、「影を踏まれると霊力を奪われる」とされ、影は生きる力の証ともされていました。

影を操る妖怪—影女(かげおんな)

日本にも、影にまつわる伝承があります。
「影女」は、ふっと現れるだけの静かな妖怪です。

女性のシルエット

壁や障子に映るだけで姿は見せず、影だけが動いていたりすることがあるそうです。

江戸時代の怪談や妖怪画にも登場し、「誰もいないのに女性の影だけが見える」という不思議な現象として語られることが多いです。

影女は悪さをするわけではありませんが、見えない何かがそこにいるかもしれないという怖さがあります。

4. 名前

世界中で、「名前には霊的な力があり、それを知られると支配される」と考えられてきました。

名前を知られると支配される
日本の平安時代、貴族たちは実名を隠し、仮の名を使う風習がありました。
これは、本当の名前を知られると呪われたり、鬼に支配されると信じられていたためです。

同じ考え方は、日本各地の伝承にも残っています。
たとえば秋田のナマハゲでは、「悪い子はいないか?」という鬼の問いかけに、親たちは「いません、いません」と答えます。

でももし誰かが子供の名前を告げたら大変です。その子は鬼に目をつけられ、改心を迫られます。

その迫力に、彼らはすくみあがるでしょう。
名指しではもう逃げ場はありません。

名前を呼ぶことが、単なる識別ではなく「その者を縛る力を持つ行為」として働いている例です。

左手を伸ばし、大迫力の赤鬼=なまはげのモニュメント
悪い子はいねが!?

この概念は、現代の物語にも色濃く受け継がれています。

映画『千と千尋の神隠し』では、湯婆婆が登場人物の名前を奪い、支配するという設定があります。
千尋は「尋」という字を奪われ、ハクは名前自体を忘れてしまい自由を奪われますが、最後に本当の名前を取り戻すことで束縛を解きます。

名前=自分自身、
名前を奪われること=自分を失うこと、
名前を取り戻すこと=自由を得ること。

この物語は、まさに古来の「名前の霊力」の概念を象徴しているといえます。

名前を知ることで支配する
逆に、「名前を知ること」で相手を封じる考え方もあります。

中国の道士(呪術師)は、敵の「本当の名前」を知ることで呪術をかけるとされていました。
『西遊記』に登場する金角・銀角のひょうたんの術も、相手の名前を呼び、返事をさせることで封じ込めるものです。

また、キリスト教のエクソシズム(悪魔払い)では、悪霊の名前を知ることで、それを封じることができるとされます。
これは、「名前を知ることが、相手を支配する鍵となる」という考えに基づいています。

名前は単なる呼び名ではなく、その人の本質と結びついた、大きな力を持つものとされてきました。


5. まだある霊性をもつもの、その中での髪の特徴とは

声もまた、霊的な力を持つものと考えられてきました。
「言霊(ことだま)」という言葉があるように、言葉には現実を動かす力が宿ると信じられています。

祈りや呪文、おまじないも、声を発することで霊的なエネルギーを伝える行為です。

名前がその人の本質を宿すものなら、声はそれを呼び起こし、影響を与える手段。
声に出した言葉が呪いになることもあれば、祝福になることもあるのです。

そしてー、
髪もまた特別な力を持つものとされてきました。

ただ、ここまでに挙げた血や影、名前、声と決定的に違うのは、髪は「自在にコントロールできる」ことです。

髪は、霊的な力を宿すとされながらも、切る、伸ばす、束ねる、ほどくといった形で、自分で操作することができます。
それはつまり、髪型を変えることで、自らの霊的な力や在り方を調整できるということ。

ここからは、「髪の霊性をコントロールする方法」について、さらに深く見ていきましょう。

髪のコントロール

赤い着物を着た女性の後ろ姿。黒く艶やかなまとめ髪が美しい。

①:スタイルのもつ意味

髪には霊的な力が宿るとされ、世界中で「髪をコントロールする」ことで精神や行動を整える文化が存在します。

これは、宗教的儀式から日常生活、職業に至るまで、さまざまな場面で見られます。

髪を結ぶ・編む・解くことで霊性を操る

日本の神社で見かける巫女(みこ)は、長い黒髪を束ねていますが、古代の儀式の際には髪をほどいて舞うことがあったとされます。
これは、髪を結んだり振りほどいたりすることで、霊性をコントロールするという考えに基づくものです。

特に、神々と交信するシャーマンの文化では、長髪には霊力があるとすることが多く、髪を編む、ほどく、揺らすことで神を降ろしたり、霊的なエネルギーを高めたりする儀式が多く見られます。

日本は万物の調和の中に生きるアニミズム的な世界観を持ち、髪を長く残し、時に振るうことで八百万の神々との同調を願い、祈りを捧げるのです。

髪を切る・剃ることで過去を断ち切る

僧侶は剃髪することが一般的です。
これは、髪とともに過去を捨て、教えに身を投じるという精神の表れであり、悟りの道を歩む者たちに共通するスタイルです。

髪を隠す

修道女のポートレイト。黒い服に白いベールを被っている。

また、髪を覆い隠す文化も見られます。

例えば、ヒジャーブというイスラム教の女性たちが用いるスカーフや、修道女のヴェールなどです。

それぞれに意味があり、ヒジャーブは女性の貞淑や敬虔さを示すものであり、イスラムの教えに基づいて身を守る役割を持ちます。
一方、修道女のヴェールは、世俗から離れた清貧と奉仕の誓いを象徴し、神への献身を示すものとされています。

社会生活における「髪のコントロール」

宗教に限らず、日常生活や職業の中でも、髪をコントロールすることで役割や規律を示す文化が広く見られます。

例えば、ビジネスパーソンは髪を短く整えたり、まとめたりすることで、社会的な秩序に適応し、落ち着いた印象を与えます。

軍人や警察官、料理人は短髪やまとめ髪が基本で、これは機能性や統制を重視するためです。また、スポーツ選手も競技に集中するため、動きを邪魔しない髪型を選びます。

日常において髪を束ねたり、ごく短くするのは、規律や効率を求める職業に共通する傾向です。

近年は個性が尊重され、髪の自由度が高まりましたが、伝統や機能性が重視される職種、危険を伴う場面では、今も髪のコントロールが不可欠とされています。

そのため、同じ業種の人々は自然と似た髪型を選ぶ傾向にあり、髪によってその人が何に従事し、何を重視しているか伝わることはよくあります。

「揺れる髪」もまた、一つのコントロール手段

くるくるした毛先をいじって髪型を整えている若い女性

髪を完全にコントロールし、乱れないようにする剃髪やまとめ髪とは逆に、毛先が軽やかに揺れるスタイルもまた一種の「コントロールの選択肢」です。

揺れる髪は、生命力や自由さを象徴し、他者に対して許容的で開かれた印象を与えます。
無頓着に風に吹かれた状態は、自然なままに神が降りてくるのを待つシャーマンに準じた霊性があります。

現代でも、「モテ髪」とされるスタイルの多くが、小綺麗に整えながらも適度に動きを残した髪型なのは、この心理が働いているからでしょう。

歴史を見ても、王やリーダー、変革者、芸術家などが、切りっぱなしの長めの髪を持つことが多いのは、この影響かもしれません。

②:誰が髪を切るのか―変化の意味を決めるもの

髪型を変えることは、単なる外見の変化ではなく、霊性そのものを変化させること。それはつまり、その人の生き方や運命をも左右する大きな出来事です。

そうであれば、その変化を「誰の手で行うか」が、さらに深い意味を持つことになります。

師匠の手による剃髪—精神的な終焉と新たな道

だいだい色の袈裟を着た、若いチベット僧がこちらを見ている

剃髪は、自らの手で行わず、たいてい師匠の見守りのもとで行われます。
これは単なる髪の除去ではなく、「精神的な終焉」を経て、「新たな道に入る」ことを求められる厳粛な儀式です。

例えば、映画『少林寺』では、主人公の少年が仏門に入るシーンが二度描かれています。
彼は謹んで師匠の剃髪を受けるのですが、初めは心の覚悟ができておらず、物語の最後に心から仏門をくぐります。

このシーンからは、剃髪が単なるヘアスタイルのチェンジではなく、「心を清め、新たな道へ進むための決断」であることが見てとれます。

自らの手で髪を切る—強い意志と決断の表れ

一方で、自分で髪を切るのは、強い意志を持ち、人生を自らの手で変えようとする時です。

映画『ムーラン』では、主人公のムーランが戦場へ向かうために、長い髪を剣で切り落とし、雨の中とび出して行きます。

当時の中国では、髪は「親から授かったもの」とされ、切ることは重罪にあたるほどの行為でした。
しかし彼女は自らの髪を捨て、足の悪い父親の代わりに戦うことを選びます。この決断は、「自分の居場所を探し求める苦悩」と「前へ進もうとする意志」を体現していました。

「自ら髪を切る」ことは、環境に流されるのではなく「今、この場で、自分の意思で、未来を決める」ことを象徴するのです。

他者の手で強制的に髪を奪われる—人格や運命の喪失

はさみに赤と青のリボンが巻き付いている。切られそうでもある。

反対に、意に反して他者の手で髪を失う場合、それは「運命の大きな転換点」や「人格の喪失」を意味します。

『レ・ミゼラブル』のファンティーヌは、貧しさのあまり自らの髪や歯を売り、人生が転落していきます。
この場面は、「社会に押しつぶされ、抗えない運命に呑み込まれていく悲劇」を描き出しています。

また、『天空の城ラピュタ』では、シータがピストルで髪を撃ち切られるシーンがあります。
この場面では、王位などには本当の価値を見出さないという彼女の姿が印象的ですが、逆に人の尊厳をふみにじる相手の卑劣さが際立っています。
切り落とされた髪は、ふるい王家の宿命そのもの。

その後、風に躍る彼女の髪は、新しい未来の始まりを示唆しています。

このように、他者によって髪を切られることは「人格の否定・尊厳を奪われること」を意味する場合が多いですが、その後の展開によっては、「新たな門出」「運命の再生」へと転じることもあります。

髪に限らず外見や身なりは、その人の意思・尊厳であり、変えることを誰が決断し、変化の瞬間を誰が手がけるかはとても大きな意味を持つのです。

床屋の語源

理容師に髪を切ってもらっている少年

さて、髪は古今東西で特別な力を持つと信じられ、人々は髪をコントロールすることで、その力を抑えたり、解放したりしてきました。

自分ではさみを入れる者もあれば、運命によって問答無用で転換を求められる者もあります。
ですがたいていは、誰か信頼のおける相手に髪をゆだねるでしょう。

その重大な役割を専門で担ってきたのが、「床屋」です

今では「理髪」「美容」といった言葉が一般的になり、「床屋」という呼び名を耳にする機会は減りました。
しかし、改めて考えてみると、不思議な言葉です。

なぜ、髪を切る店を「床屋」と呼ぶのでしょうか?

「床屋」という言葉の語源には、三つの説があるとされています。

1.床の間からきた説

「床屋」の語源の一つは、「床の間」に由来するという説です。
これは、鎌倉時代に下関で開かれた髪結いの店に、格式ある床の間が設えられていたことに由来するというものです。

藤原晴基と失われた宝刀

鞘から刀身をみせる日本刀
この写真はイメージです

今からおよそ750年前、藤原晴基(ふじわらの はるもと)という武士が、亀山天皇の宝物管理を任されていました。
しかし、あるとき彼は、大切な宝刀「九龍丸の宝剱(くりゅうまるの ほうけん)」を紛失してしまいます。

宝刀は、単なる武器ではなく、高貴な身分を示す証や、神聖な意味を持つ御神剣です。
重責を果たせなかった晴基は、武士の身分を失い、京を離れ、山口県の下関へ移り住むことになりました。

髪結いの店を開く

当時の下関は、蒙古襲来を目前に控え、多くの人や物が行き交う活気ある町でした。
この地で晴基の家族は、武士の髷(まげ)を整える「髪結い」の仕事を始めます。

理髪店は古くから情報が集まる場所とされ、髪結いをしながら武士たちの会話に耳を傾け、宝刀の行方を探っていた可能性もあります。

あるいは、武士としての誇りを失わず、密かに天皇や藤原家のために蒙古の動向を探る役割を果たしていたのかもしれません。

「床の間のある店」が「床屋」になった?

当時髪結いは外の屋台のような営業形態が一般的でしたが、晴基の息子、采女亮(うねめのすけ)は、本店舗を構えました。

その店には格式ある「床の間」が設けられ、京で仕えていた亀山天皇の祭壇や、藤原家の書が飾られていたといいます。

「床の間」は和室の一角に設けられた、掛け軸や花を飾る神聖な空間です。

昔の家は、個室ではなく障子で仕切られる造りが一般的でしたから、どうやってプライバシーを保つのか、お客はどこに迎えるのかなど、家屋の秩序を保つのは、部屋の壁ではなく人そのものでした。
床の間は、最上位の位置を示し、家の秩序全体を決める役割を果たしています。
そこに飾られる書や品々は、その家で最高に良い品、あるいは花一輪であっても、最も重視する精神や価値観を表わすものなのです。

藤原親子の店の床の間もまた、かつては武士であったという誇りと精神を掲げていたのでしょう。
そのため、この髪結いの店は「床の間のある店」として珍しがられ、やがて「床場」、そして「床屋」と呼ばれるようになったと伝えられています。

現在、下関には「床屋発祥の地」を記念する石碑が建てられています。

下関にある床屋発祥の地の記念碑。丸い意志に床屋発祥之地と刻まれている。
下関 亀山八幡宮にある記念碑

2.床店からきた説

でも、「床の間」が語源だとする説には疑問もあります。

いくら当時の下関がにぎわっていたとはいえ、江戸でも京でもない町の一店舗が、ネットも車もない時代、全国的な名称に影響するとは考えにくいという点です。

そこで、「床屋」の語源として挙げられるもう一つの説が、「床店(とこみせ)」に由来するというものです。

「床店(とこみせ)」とは?

床店とは、移動式の屋台のような簡易店舗のことを指します。
当時のにぎわう街には、屋根を持たない露店や、折り畳み式の移動可能な店が並んでいました。
そこでは、食べ物や雑貨の販売のほか、髪結いをする店もあったとされています。

武士たちと髪結いの需要

江戸時代の武士たちは、三~四日に一度は月代(さかやき)を剃り、髷を整えていました。
そのため、髪結いは非常に需要の高い職業であり、江戸の町には多くの髪結いの床店(髪結い床)が存在していました。

こうした背景から、「髪結い床」がやがて「床屋」へと転じたとするのが、この説の主張です。

床店説の信憑性

この説の強みは、「床屋」という言葉が江戸時代に広まったことと合致する点です。
江戸の町では、庶民が気軽に利用できる床店が多く、特に髪結い床は日常生活に密着していました。
そのため、全国的に「床屋」という名称が定着した可能性が高いと考えられます。

3.「とこしえ」に関わる説

最後にもう一つ紹介しましょう。
それは、「床(とこ)」という言葉の持つ音霊(おとだま)に着目した説です。

「床(とこ)」と「とこしえ」

人の暮らしは、地べたではなく「床(ゆか)」の上で営まれます。

この「床」は、「とこ」とも読まれ、「ところ(所)」とつながる言葉でもあります。
「床(とこ)」とは、人が生き、存在する場そのものを指す言葉と考えることができます。

一方で、同じ音霊をもつものに「とこしえ(常しえ)」という言葉があります。
これは、時を超えて変わらないものの本質を表す言葉で、「たましい」に通じるものです。

髪と魂の関係

そして、髪はまさに魂の象徴ともいえるものでした。

髪は人の想いや記憶を宿し、時とともに重みを増し、また新たな道へ進むときには断ち切られたりもします。
髪を切ることは、単なる身だしなみではなく、人生の節目や決意の象徴ともなります。

「床屋」は魂を整える者

このことから三つ目の説では、床屋というのは、「床(とこ)」=この世(現世)において、「とこしえ(常しえ)」=魂そのものである髪を扱い、整える者だと考えます。

髪を変化させるという行為が、魂を整え、軽やかに生きていくための儀式となる文化は世界中にありました。

だからこそ、髪に手を入れ、ときに鋏を持ち断ち切る役目を担う人々を、人々は敬いを込めて「トコヤ(魂をあつかう者)」と呼んだのではないでしょうか。

床屋の語源と髪の霊性、まとめ

床屋で髪を切ってもらっている小さな男の子。無心に鏡を見ている。

髪は、古今東西特別な力を持つものと信じられ、数えきれない逸話が残されています。
そんな髪を扱う職業は、古くから「床屋」と呼ばれてきました。

その語源には、「床の間」や「床店」など、いくつかの説があります。

しかし、もし髪に霊的な力が宿るのだとすれば、「とこしえ(常しえ)」という言葉もまた、床屋の本質を表しているのかもしれません。

床屋は、髪を整え人生の節目に寄り添い、新たな門出を支える仕事です。
人が気持ちを切り替え、新しい自分になるとき、そこにはいつも彼らの手があります。

彼、そして彼女たちの指先は、いつも美しい未来をつむぎます。

なじみの理容師さんが鏡越しに、あなたと同じ方向を見つめ、微笑む姿があるでしょう。

それはきっと、あなたもまだ気づいていない
この先のあなたの輝きを見ているからなのかもしれません。

ヘアメイクの仕上がりを合わせ鏡で、笑顔で見せる美容師。客も満足して笑っている。

参考資料

L.M.モンゴメリ,赤毛のアン,1908

ミヒャエルエンデ,「モモ」,Thienemann Verlag Gmbh,1973

佐藤孝裕,アステカの人身供犠に関する一試論,別府大学アジア歴史文化研究所報,16,1998

監督 宮崎駿, 「千と千尋の神隠し」,スタジオジブリ,2001

西遊記,1500頃

監督 張鑫炎,「少林寺」,中国電影,1982

監督 バリークック,トニーバンクロフト,「ムーラン」,ウォルトディズニー,1998

ヴィクトル・ユーゴー,「レ・ミゼラブル」,1862

監督 宮崎駿,「天空の城ラピュタ」,スタジオジブリ,1986

全国理容生活衛生同業組合連合会,床屋の発祥地は…~そして床屋という名称の由来~

※ 理容師法 第6条「何人も、理容師でなければ、業として理容をしてはならない」とあるが、僧侶の剃髪は、あくまで宗教的儀式の一環であり、理容師法で規制される「業(ビジネス)」には当たらないとされ、出家の儀式として僧の手によって剃髪を行うことは違法ではない。

※当ブログは、管理人が自身の調査と個人的な思考を交えて書いております。記事の内容は学術的な根拠をもたず、誤りや不適切な表現が含まれている場合もございますが、その際はご容赦いただけますと幸いです。当ブログはあらゆる信仰や生き方を尊重し、すべての方の心に寄り添うことを大切にしています。どなたも軽んじたり排除したりする意図はありません。


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今朝、雷で目が覚めました
神社やお寺、教会などを軸に、祈りについて学びながら心の平穏を探します。このブログをきっかけに、世の中の事物にも目を向けられたらと思います。晴れた一日になりますように。
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