まじない

言葉の力
「人生詰んだ」
近年ネット上や日常会話の中でも、よく見かけるこの言葉。
耳にするたび、息ができなくなるような苦しさがあります。
その意味もそうですが、「つ」の音のせいかもしれません。
この言葉の由来になった将棋では「詰み」は、万策尽きた終局を意味します。
そこから、「人生がどうにもならなくなった」という状況をさして言われるようになったようです。

でも、人生というものは、たった一局の勝負ではないですよね。
自分の人生も、誰の人生も。
なぜこのような言葉が次から次へと市民権を得ては、あらゆる場面で口にされるようになったのでしょうか。
心が痛む人が大勢いるはずなのに。
それは、言葉に秘められた“まじない”の力に対し、人の感度が変化し始めているからかもしれません。
この記事では、日本語がもつ「まじない力」について考えます。
言葉はふわりとまるい

みなさんは「あ」という音は、どこからどこまでを指していると思いますか?
たとえば、「あっ」と友人が言った場合、彼は忘れ物を思い出したのかもしれません。
するとその「あ」は、忘れ物の存在も含んでいるでしょう。
そしてその声を聞いたあなたが「どうしたのかな」と思ったなら、その気持ちも「あ」という音の広がりに含まれているかもしれません。
「あ」の一音は、家にある忘れ物からあなたの心までを、友人を中心としてつなぎ合わせました。
「ねえねえ」という言葉は、もっとわかりやすい例です。
幼い子どもが「ねえねえ」としきりに声をかけてくるとき、そこには「ママ大好き」も「楽しいことがあったよ」も、「こっちを向いて」も含まれていそうです。
だからママの方は、「今ちょっと忙しいな」と思いながらも、「昨日この子は幼稚園でお友達とケンカしたっけ、あのあと大丈夫だったかしら」など瞬時に思いめぐらせ、「なあに?」と手を止めて答えるのでしょう。
この時の「ねえ」では、子どものたくさんの心理と、親の愛情と思惑とが、一瞬で交差しています。
このように、言葉というものは、場面によって多くの意味をふくみ、いつもふわりとして、どこかまるいものです。
そして、そのふくみの余白部分は、人同士が近接して相手を感じることで広がっていきます。

日本語は結論を急がず、多方面を思いやりながらゆっくりと話すことが自然とされていますが、そうやって話すことで、お互いの心が少しずつ重なり合い、私たちは言葉で伝達した以上のことを伝えあっているのです。
すると、人の心が重なり合うこの余白部分には、何かを変える”まじない力”が入りやすくなります。
「まじない」というと非科学的ですが、言い換えれば、ほんのわずかの言葉の操作で、何かを大きく変える力を持ちやすいという事です。
「月がきれい」はもう通じない

ここ何十年、人同士の交流に関して、私たちを取り巻く環境が大きく変化しました。
LINEやメールでのやり取りが当たり前になり、スタンプひとつやイエス・ノーの短い返事だけで、会話が成立することが多くなっています。
関心があればスマホを介して、昼夜を問わずやり取りを続ける一方で、関心のないものには返信すらしないというのも、珍しい事ではありません。
文字の含意を読み取るのは大人でも難しいというのに、現代の子ども達は生まれた時から文字に囲まれ、しかもその文字の扱い方がこのような無法地帯といえる状況に置かれています。
これでは情報の交換はできても、繊細な心の交流をする、訓練の場を失っているようなものです。
彼らは、そんな状況を“普通”として育っています。
この”普通”というのは、決して”平気”とは異なる、という点に注意しなければなりません。
気が合う子だけで会話がもり上がっている片隅で、完全な孤立状態におちいったり、あるいは孤立までいかずとも、あきらかに輪の外の立場にある子も「平気な顔」をして育っているのです。

このように育ち、人の心情を読めない子が増え、逆に敏感な子は傷つきすぎ、相手によりそうこと自体に世代全体が疎くなれば、文字だけでなく実際の言動も大きく変化します。
たとえば、はっきりと「好き」と示されなければ、相手の気持ちが理解できない。
それはまだ微笑ましくても、逆の意味を示すときには強すぎる表現に傾いて、その鋭さに気づかなくなります。
「無理」「死ね」となってしまうのです。
そしてそのまま大人に

やがて大人になっても、感覚が育ちきらないままになってしまうことがあります。
近年、目の前の知人に挨拶をされても、返すことさえできない”若者”が増えました。
韓国や朝鮮の知人が、まっすぐに相手を見て当然のように礼儀正しくふるまうのを目の当たりにすると、日本が失ったものの大きさにがく然とさせられます。
また、たとえば、年配の親から長めのLINEが届いたとします。
唐突だったり、少しズレていたりしても、その裏には「元気かな」「話したいな」という気持ちが込められているかもしれません。
親はいつの間にか歳をとっています。
いつのまにか、冷蔵庫の高い所の物さえとれなくなっていたり、買い物ひとつ困難になっていることもあります。
いくつになっても子供を心配し、それでも関わる事を極力遠慮し、その末にやっと送ったメッセージだったかもしれません。
けれどそれに気づけず、「重いな」と受け取って返事をしなかったり、スタンプだけで済ませてしまう“いい歳”の大人は、珍しくありません。
言葉が届いても、そこにはもう心の重なり合う部分が見出せなくなっています。
狭まっていくまじないの居場所

また、いつの時代も若者向けのカルチャーは、刺激を強めながら、次々にボーダーラインを緩めていきます。
仮想の世界で”衝撃”的に演出されたものが、数年後には現実の世界で”普通”になり替わるかもしれません。
心情を量ることのできない享受者のためには、描写はこれでもかという程具体的になり、なにもかもが極端であからさまになります。
「月が綺麗」はもう通じません。
衝撃で注目を集めるためにぎりぎりのボーダーライン上に登場した表現は、情緒の発達段階にある子供たちを、仮想と現実の境に迷わせます。
さらに今はそのスピードが驚異的。
この国はこれが連鎖して、すでに久しくなります。
この間に、日本語の中のまじない力を繊細に操作できる人は減り、まじないの力の多くは言葉の余白にいられなくなりました。
では、どこへ行ったのでしょうか?
まじないの暴走
まじない言葉たちは、いつしかネットの掲示板やSNSの投稿欄に、日常的に書き込まれるようになりました。
「人生詰んだ」という言葉も、その一つです。
これは自分を否定し、可能性を狭め、他者に傷を与える力を持ちます。
「負け犬」「勝ち組」「自己責任」など、似た言葉は数多く存在します。
それらは、最初からまじないであったわけではなく、使用される文脈によっては単なる言葉にすぎません。
でも、文字として拡散されるうちに、人の心に影響を与えるようになります。
少しずつ人を傷つける力を持ち、やがて私たちの社会全体の在り方にも影を落とし始めます。
言語への感覚が鈍化する世界で、言葉が暴走しだすのです。

最初は、自身を「負け犬(以下○○○と表記)」と、半ば冗談めかして表現するところから始まりました。
けれどこの言葉は、言葉の扱いに不慣れな人々の中で、思わぬ方向へ広がります。
他者を「○○○」と呼んでみたり、メディアが「○○○にならないために」と当然のように使用したりするようになります。
自分が○○○ではなく、あなたもそうでないなら、いったい誰がそうなのでしょうか。
実際には、そのような人はどこにも存在しません。
この言葉は、実体のない「まやかし」を作り出し、人の尊厳を脅かす力を持っています。
「自己責任」という言葉にも、強い疎外感と停滞を生む要素が含まれています。
同時に、それはある種の「臆病さ」も表しています。
この言葉は、町の張り紙や、何気ない会話の中にも頻繁に現れます。
ときには単なる質問に対する応答として使われ、この時などは唐突に張り手を浴びたようで、敏感な方などは思考が一時停止してしまうことすらあるでしょう。

日本の言葉のまじない力は、もともと会話の余白に存在し、その効き方も穏やかでした。
でも今では、その余白から離れ、ネット上を高速で巡回しながら、急速に定着するようになったのです。
良いまじない

「呪い」は、良い力のものを「まじない」と読み、悪い力のものを「のろい」と読みます。
最後に良い力を持つまじないについても見てみましょう。
これらは普段、言葉の余白にひっそりと隠れていて、心と心がおぼろに重なった瞬間にだけ、きらりと光ってまたすぐ見えなくなります。
人の成長や暮らしに影響しますが、それは悪いまじない(のろい)も同じです。
大きく異なるのは、悪いまじないが人々の心の中にずるりずるりと広がりながら、あちこちに影を落とすのに対して、良いまじないは「今だ」という時に、はっきりと、しかも一度で最大の効果を発揮する点です。
たとえば、親は何度も子どもに「しっかり食べるように」と言います。
それは何年も繰り返され、やがてその子が一人暮らしを始める頃には、いつしか耳に馴染んだ言葉として記憶の奥にしまわれています。
ある日、体調を崩して食事の大切さを痛感したとき、その言葉がふとよみがえるでしょう。
親はもう側にいないけれど、かつて聞かされた言葉がその子を支える力になる。
それが良いまじないの働きです。

これは一見、ささいなことに思えるかもしれません。
けれど、より困難な場面でも、私たちは無意識のうちに言葉の力に守られています。
たとえば、まったく土地勘のない海外の空港や駅で、あるいは何らかの軽いショックを受けた時、自分を落ち着かせるために手を洗ったり、身だしなみを整えたりする、そんな行動の背後にも、幼いころから聞いてきた「手を洗いなさい」「寝る時は着替えなさい」「清潔にしておきなさい」などという言葉があります。
これは、自分の心をいったん困難から切り離す、とても理にかなった行動です。
こんなふうに慣れない環境のなかでも、冷静さを保つための小さな習慣を自然に思い出させる。それは文化の中で培われた、日本語の良いまじないの力です。

さらに、もっと切実な場面もあり得るかもしれません。
たとえば、極限の緊張状態や予期せぬ危機に突如として巻き込まれたとき、人は思考が一時的に止まり、判断を誤りやすくなります。
脳の働きとして、強いストレス下では「闘争・逃走反応」が優先され、とっさに普段なら選ばないような行動に走ってしまうと言われています。
論理的な判断力が鈍るまさにその瞬間、まじないの力は、論理と本能のあいだにある静かで深い心の領域から、電光のように立ち現れることがあります。
あなたに最後の理性をつなぎとめる声にならない声が、道はこっちだと響き渡るのです。

それは、かつてあなたの幸せを願ってくれた誰かが、あなたに贈ったまじないの言葉。
あなたの心のどこかにそっとしまわれ、時間を越えて今ふたたび、あなたを支えようとするものです。
その人は、日々の暮らしの中で、小さな”好転”をあなたにいくつも届けていたかもしれません。当時は、それがまじないの力だったとは気づかなかったかもしれない。
だけど、今だというその瞬間、魂に直に呼びかけてくる。
まさにそれこそが、ささやかな言葉の余白に宿る、日本語の本当のまじない力なのです。
まじない力、まとめ

長いあいだ、日本では人と人が心をふわりと重ねながら、言葉を交わし、つながりを築いてきました。
けれど今、デジタル通信技術の急速な発展により、その風景は大きく変わろうとしています。
言葉を直接やりとりする機会が減り、知識の伝達は以前にも増して効率的になった一方で、相手の心をそっと推し量る感受性は、少しずつ薄れてきているようにも感じられます。
無遠慮な言葉があたりまえのように並べられ、知らぬうちに誰かを傷つけてしまう、そんな状況が常態化しつつあるのが、いまの私たちの世界です。
これは、まじないの力が、悪いかたちで作用している状態ともいえるでしょう。

それでも、良いまじないは今も確かに存在しています。
それは、何気ない日々の会話や、小さな気づかいの言葉の中に、そっと息づいています。
あなたがいつか思わぬ迷いや深い孤独に出会ったとき、キラリと光る言葉がよみがえるかもしれません。
どうかその時、
本物のまじないの力が あなたを守りますように。
参考資料
山川香織,大平英樹,ストレス下における不合理な意思決定 ―認知機能の側面から ―,生理心理学と精神生理学,36(1),40-52,2018
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