ご神木-死を内包した常しえの生

木を「き」と声に出してみると、どこか温かく、乾いた心地よさを感じませんか。
その感覚は、私たちが日々の暮らしの中で恩恵を受けている木の魅力そのものです。
木は、根を張って“生きて”いるときも、切られて“死んだ”後も、そのぬくもりがほとんど変わりません。
私たちは木製品を見て、温もりや自然の気配を感じこそすれ、それを「死骸」とは思いません。
それは、木が持つ“死のあいまいさ”によるものかもしれません。
この記事では、人とは異なる死生をたどる「木」を通して、ご神木とは何かを改めて考えてみたいと思います。
ご神木とは

ご神木とは、神社の神域にあるすべての木を指します。
本来、人の手をなるべく加えず、神事や維持のために最低限の手入れをするのみとされます。
また、神域の外に広がる森も、風景や自然の循環を通して神域と密接に関わっており、広義にはご神木と捉えられます。
たいていの神社では特定の木に由緒が示され、しめ縄が張られ、特別なご神木として祀られています。
どのような木がご神木になるのか

ご神木は、悠久で清浄な空間を象徴しています。
そのため、花や実が目立たず、周囲を汚さない常緑樹がよく選ばれます。
また、数百年から千年単位で生きることができる木――人の時間感覚を超えた寿命や大きさを持つ木が、ご神木にふさわしいとされます。
ただし明確な決まりはなく、地域の風土や文化によって、落葉樹や実をつける木(例:火に強いイチョウなど)が、社殿や町を守るご神木とされることもあります。
なぜご神木があるの?

神社の神さまやご利益は千差万別ですが、どの神社にも「木」が祀られています。
それは、ご神木が“神域がそこに存在している”ことを示す印(しるし)だからです。
たとえば皆さんの町に、「あの道を越えると雨が降ることが多い」「あの角から先だけ雪が積もる」といった“境目”のような場所があったりしませんか?
日常車で移動していると気づきにくいものですが、徒歩や自転車で行動してみると、微妙な天候の差には敏感になり、町中にはこのような不思議なポイントが、所々にあるのに気づきます。
こうした違いは海や山の配置、風の回り具合など、自然の理で説明できますが、かつての人々にとっては理解を超えた神さまの采配のように映ったことでしょう。
そのような、おぼろながら確実にそこにある力の境界には、木や石、祠、地名などの印が置かれました。
中でも特に多く選ばれたのが、「木」です。
なぜ木だったのか――それには、木が持つ並外れた生命力が関係しています。
印としての木:生命力の象徴
木は動かず、身近にあり、昔の人々の暮らしと常に寄り添ってきました。
それだけでも印にふさわしい存在ですが、最大の理由はその生命力の強さにあります。
つぎに木の生命力を、四つの面から見てみましょう。
1.再生する力

家の庭木に手を入れてみれば、枝を切っても、木々はやがてまた新しい枝を伸ばすことに気づきます。
もし少しでも庭を放っておけば、すぐに全体が藪(やぶ)のように茂ってしまうでしょう。
これはすばらしい再生力です。
夏の庭の手入れには辟易させられますが、世界にある不毛の地を思えば、この緑の再生力こそが日本の豊かさの根底と言えます。
体の一部を失っても、陽の光が差す場所に向かってまた枝を伸ばしていく、このしなやかで粘り強い生命の力は、まさに自然の奇跡です。
2.若返る力と「常若」

木は失った一部を再生するだけでなく、命のついえそうな瀬戸際で、若返る力も持っています。
完全に伐採された切り株から、いくつもの新芽が伸びたり、老齢の木から少し離れた地面から、同じ種類の若木が芽吹いたり、こうした営みは、木が自身の衰えを感じて命をつなごうとしている姿です。
イチゴのように、つるから新たな株を生む植物もありますし、世界には地下でつながる広大な森全体が、実は一つの命の循環となっている例もあります。
日本では「常若(とこわか)」という考えがあり――常に若さを保つ神聖な姿として尊ばれてきました。
3.命を支える力

木は、酸素を生み出し、日陰をつくり、実を与え、生き物に棲みかを与えます。
倒れてもキノコや微生物を育て、やがて土へと還り、新たな命を育てます。
太陽のエネルギーを命に変える植物は、地球の生態系の基点です。
栄養は地下を伝って川に流れ、海へ達し、本来陽の光すら届かないところでも命を支えています。
科学を知らなかった昔の人々も、森から流れ来る清らかな水、そこで得られる豊かな食べ物などから、木々や植物に命の源を感じていたに違いありません。
そうであるからこそ、日本には八百万信仰が生まれ、日本語には「緑色」を表わす言葉が数多く存在し、自然界の豊かさを体現する文化が、世界で群を抜いているのです。
4.寿命のあいまいさ

実は木には、人のような明確な寿命がないと言われます。
早ければ数年で枯れることもあれば、千年以上生きることもあります。
老化で水分や養分の吸い上げが衰えることで死を迎えることもありますが、何らかの方法で成長を制御すれば、命を限りなく長く保てる可能性があることも、示唆されています。
サイエンスを否定するわけではありません。でもこの”何らかの方法”とは、実験室で作り出した奇妙な薬品を使ったり、多額の予算をかけて遺伝子をいじったりすることではありません。
それには及ばないのです。
ただ人が木が見つめ、静かに会話するようなささやかな技術でよいのです。
そして日本や中国には、すでにそのような技術の粋が存在します。
「盆栽」です。

永遠と一瞬、老いと若さ、まるで時空のすべてが集約されたようなこの芸術は、木の生命が絶対的な”期限”をもたず、”あいまい”な幅を残していることに昔の人が気づいていたからこそ、生まれたものでしょう。
神さまの領域と、死を内包する木

木を育てるのに百年、それを伐採して乾かすのに百年、親子三代かけて木材を用意し建てた家は、ペンキを絶対に使わない——そんな話を、知人の大工さんから聞いたことがあります。
理由を尋ねると、そうした木はまだ“生きて”おり、呼吸をし、ひずみを吸収し、経年とともに一層強く、また美しくなっていくからだそうです。
木は死してなお生きており、朽ちては他の命に循環し、かつてこの地球に生命が誕生した時から、途切れることのない命の輪の中にあるものなのです。
このような木における死の境界は、人にはたやすく量ることができません。
木が“死”を迎えてなおも生命の一部であり続けることは、私たちが木製品に温かみやぬくもりを感じる理由でもあります。
それは、木が内包する命の余韻を、私たちが無意識に感じ取っている証なのかもしれません。
そして、このように死と生が重なり合うあいまいな存在としての”木”は、日本の「神さまの領域」にこそ、ふさわしい存在と言えるのです。
ご神木:周りに対して境界を印し、神域内では暦となり層を担う
世界の多くの宗教施設が、厳格な教義や啓示を与える場であるのに対し、日本の神社は「何かを感じるための空間」とされています。
おごそかな神事が行われることもあれば、散歩の途中にふらりと立ち寄って願いごとをする人もいます。
何を求め、なにを感じるかは人それぞれであり、一つの場所に多重の現実が重なる場でもあります。
古今東西、神さまの領域で人が本能的に向き合ってきたのは、「生」と「死」の問題です。
死は理解を超え、恐ろしく、だからこそ人は祈り、神を求めてきました。
人生の喜びや、様々な願いを託すのも、より良く「生きたい」という意味で、本質は同じでしょう。
生と死のあいだをたゆたう木。それははるかな昔から、遠い未来までつづく生命の暦。
その木が立つ神域は、死を内包した永遠の生の象徴であり、重層的な現実の交わる場所でもあります。

鳥居の中では、ただ静かにその空気に身をおいてみてください。
風の音が、ふいに呼びかけてくるかもしれません。
一匹の虫が現れて、羽音を聞かせてくれるかもしれません。
深く呼吸をすれば、木々の中に立つあなたもまた、命の輪に抱かれた一本の木になることでしょう。
多重的な空間のどこかにあなたの心が響き合う時、そこを特別な場所と印すご神木の力が、優しく働きかけているのかもしれません。
参考資料
Ichiro Kuriki, et al., The modern Japanese color lexicon, Journal of Vision,17(3),2017
Eugene V. Shakirov, et al., Plant telomere biology: The green solution to the end-replication problem, The Plant Cell, 34(7), pp. 2492–2504,2022
「Bonsai: the Art of Longevity」, Portland Japanese Garden, 2017, Portland Japanese Garden Bonsai Longevity
遷宮について, 伊勢神宮「式年遷宮」公式ページ
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